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​「周易講義」より 

君子と云うものは悉く我身が天に則って居らなければならぬ。

此易の書は全く天地を寫(うつ)したものである。天地と別に異(か)わりがない。そこで此易の書を読めば、天地と違わない様になる。

総て易を読んだ者は、人に向かって言葉を發せんとするときにも、易に因って考えて言う。これを易に擬するで、易にある處に法って、其上で辭を出す。また、我に於いて何事か行わんとするときがある。此事を行わんとしたならば、それを行って宜しいかということを、易に依って謀って見る。斯う行ったならば善か、斯う行ったならば不善かということを、之をよく易に相談をして見る。そうして其上で動いて行う。言を發するにも行いをするにも、悉く易に相談をする。易に法って色々の變化を為して行って往く。

<安岡正篤 「活学」より>

 

東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、どうしても易と老子を学びたくなる、と言うよりは学ばぬものがないと言うのが本当のようであります。

又そういう専門的な問題を別にしても、人生を自分から考えるようになった人々は、読めると読めないにかかわらず、 易や老子に憧憬 を持つのであります。

 

大体易や老子というものは、若い人や初歩の人にはくいつき難いもので、どうしても世の中の苦労をなめて、世の中というものがそう簡単に割り切れるものではないということがしみじみと分かって、つまり首をひねって人生を考えるような年輩になって、はじめて学びたくなる。

 

又学んで言いしれぬ楽しみを発見するのであります。

 

 

しかし、若い人でも、逆境に育ったり、或は病気をしたりして、うかうかと暮らせないような境遇に立ったものは、

やはりこれに魅力を持つ様であります。

 

これは何故かと申しますと、孔子・孟子等の古人の儒学というものは、専ら倫理・道徳を説いたもので、従って非常に現実に徹した実践的なものであります。

 

ところが、あくまでも現実に徹して、人間生活の厳しい実践の法則を立ててゆく学問は、それだけに人間が現実に疲れて来ると、どうしても重荷になって参ります。

 

そこで儒者はどうも重苦しい。

 

しかし、少し立ち入って味わってみれば、常に内面生活に遊ぶ面も豊かに含まれておるのでありますが、それはよほど深く入らなければ分からない境地で、とにかく表れたところは誠に現実的実践的で堅い感がするのであります。

 

 

この堅さ、厳しさを救うものが、黄老思想、或は所謂老荘系統の思想・学問であります。

これは誠に理想主義的で、現実にとらわれない、形而上学的なところがあります。

 

だからこの学問をすると、現実から解放されるというか、救いを感じると言うか、とにかく現実生活から救われる感がある。

 

そこで人間というものがいささか分って首をひねるようになって来ると、或いは又この現実生活に疲れを感じて来ると、どうしても老荘の学問に入って来るのであります。

 

 

もともと東洋思想の源流はなにか、といえば、孔孟と黄老(或は老荘)の二大潮流であって、仏教は後に東洋文化の大きな内容にはなりましたが、これは漢末になってから入って来たものであります。

黄老は支那帝王の理想である黄帝、それと老子、それが漢末になって老荘という様になったので、そこでその本場である中国のことを黄老の国というのであります。

 

 

~中略~

 

さきほど申し上げましたように、われわれの生活・思索・学問というものに味をつけ、深味をつけ、うるおいを与える点において、老子の思想・学問の右に出るものはないと言って宜しいのであります。

 

老子自身は往々にして現実から離れた、仙人の元祖の如く扱われているのでありますが、事実は逆で、却ってこの学問をやると現実にうるおいをもたらし、現実を活かすことになるのであります。

従って漢代に入ると、いちはやく孔孟系統と黄老系統は双方から交流致すことになるのであります。

例えば、中庸とか易とかいうものは、その両方の渾然と入り交ったものであります。

そういう意味で老子は決して古い東洋や西洋の思想学で批判されている様な奇矯な学問でもなければ、また超越的な思想でもない。

深味もあり、現実的な価値もある思想・学問であります。

BY 根本通明

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「老子講義」

(根本通明 講述)

明治時代、周易の講述で最高峰である根本通明先生の老子講義。

 

 

 

老子五千言は真に是れ玄の又玄なるもの。古来之を注釈せる者、和漢其書に乏しからずといえども、初学の士、なお、その要領を得るに苦しむものが少なからず。本書は老儒根本先生が数十年来、沈潜咀嚼のあまり、独特の見地を以て極めて平易明鬯(めいちょう)に講述せられたるものにして古宝刀の新たに磨きを経たるものの如く、孔子が猶、龍乎と称して端倪すべからざるを嘆じたる老子の面目極めて釈然たるものあるべし。

抑も老子は諸子中の泰斗して漢学を講ずるものは勿論、東洋哲学を攻むるもの、詩文に遊ぶ者、共に研鑽せざるべからず。

而して老子を読むものは先ず本書より入らざるべからず。

老子を講ずる人の未だ老子の何たるを知らざるの人、皆一本を備えて玄味を咀嚼せらるべきなり。

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