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  • 執筆者の写真重光

予測不能の時代①


昨日 6月18日は新月でした。

旧暦では皐月が始まりました。


さて、前回までは 弘法大師 特集ということで

お話を進めてきましたが

ここから 数回に分けて

「予測不能の時代」

という矢野和夫さんという

日立のデータサイエンティストの方が書いてる本 から

易経を取り上げている箇所がありますので

そちらをシェアしていきたいと思います。


予測不能の時代ということで

未知の変化への対応力は退化してきた

と著者は言います。


明治や戦後の欧米に

「追いつけ追い越せ」の時代になると

すでにある知識や情報を取り入れることが

学問であるという認識が急速に広がりました。


実際に過去の知識によって予測でき

対処可能なことも増えましたが、

このため予測不能な変化に向き合う能力は

この100年間 あまりの間に低下したと思われます。

一種の「退化」ということです。


技術や道具の発展とともに

それまで保有していた人の能力が

退化することは珍しくありません。


例えば、文字の発明によって、

それまでの語り部が保有していた物語を

記憶する能力は大きく 退化したもの

と思われますし

最近の例では、電卓の登場で

暗算の能力が、

また、ワープロの登場に

よって漢字の記憶能力が退化したと言えるでしょう。


同様に、最近の科学技術の進歩により

あらゆる 社会生活の領域で

予測可能な部分が増え

科学的知識に基づき対応できる能力が

多いに進歩してきました。


残念ながらこれに伴い、

予測不能な変化に対応する力が

退化したということは

私たちも感じるところではないでしょうか。


しかし、ここで重要なことは

予測不能な変化は

「今も次々に起きていてとどまることはない」ですし

むしろ 変化は激しさを増しているということです。


いくら 知識や 科学が発達しても

今後も未来の変化を避けることはできないのです。


だからこそ


「過去からの すでに得られた知識を活用する力」と

「予測不能な未来に向き合う力」

の2つはどちらも必要であります。


変化を論じる際に重要なのは

今現在の捉え方です。

今という過去と未来の出会う点をどう見るか?

については 2つの異なる視点が存在すると言います。


1つ目は

今は過去の確率された知識を活用する立場である

という見方です。

従って、すでに確立された知識 学問や 科学 ノウハウを学び

その活用が大事と考えます。


この見方によれば、過去の知識にないことは

対応できないことになります。



2つ目は

今は予想不能な未来への向き合う最前線である

という見方です。

仮に予測不能であっても対応な状況変化に

体系的に処する方法はあると考えるという見方です。


20世紀 幅広い分野で科学的発見が行われ

その工学的応用が広がった時代でありました。

この中で学ぶのが追いつかないほどの速度で

知識が生まれてきました。

これによって前者のアプローチが強調された時代だったと言えます。

災害などのリスクに対してさえ、

過去の知識に基づき 対応可能と考えてきた、と。


質問されたことに対して

「それは私の専門分野ではないのでわからない」

という答えをする人がいます。


質問に対して「過去に得た知識では答えられない」という意味です。

この場合 まさに前者の見方で今を見ていることになる

ということです。


我々の中には

前者の「既存の知識の活用の場としての今」

という視点が深く染み込んでいます。


あまり知られていないですが、

かつては 後者の「予測不能な未来に体系的に処すること」

がむしろ大事にされていたのです。

歴史的には長く こちら見方が支配的だった。

これの一つの例として

易経というものをその筆頭に挙げています。


易は「変化の書」といわれ64個の形から

極めて体系的に構成されたパターンによって

未知の変化を分類し それぞれの状況への処し方を記述します。


易は儒教において四書五経の筆頭に上げられることから

未知への対応方法が学問の中心に

位置づけられていたことが分かります。


既存の確立した知識や情報を知ることよりも

むしろ 予測不能な状況へ体系的に対応することに

重きが置かれていたということです。


我々の先人たち、

特に江戸後期・明治などの世界と対峙してきた

時の知識人にとっては

学問を修めるというのは、

未知の どんな状況にあっても

ぶれずに正しい態度で向き合える人になる

ということだった。


その正当かつ最高の教科書が易だったのだといいます。


この考え方は

現在の学問が学習していないことや

知らないことには無力なのとは対照的で

本や学校で習ったことを理解する今の学問とは

学問の在り方が全く違ったのである。


今も 儒教の話としては 論語 が広く読まれているのに対し

易を読んでいる人は極めて少ない。


その本質をしっかりしている人は

さらに少ない。

易はそもそも 数学的な体系になっており

読み物になっていない。

このため 少し難しい部分があります。


しかし著者(矢野さん)の知る限り、

未知の変化への向かい

向き合い方というテーマについては

現代に至るまで

易が最も体系的で

かつ本質を論じている、

今もって

古代の体系「易」が

最も先進的で尖った存在なのだ

ということを言っています。



では、次回からはそのどういうところが

尖っているのか?

どう未知に処することができるのか?

ということををお伝えしていきます。

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